ラシュモアポスターに関する一考察
映画ポスターについて皆さんはどれだけ気に掛けるだろうか?
ネットが普及して映画公式HPや動画サイト、SNSが発達しているので、やはり下火になってきているのだろうか。
しかし、人間が映画を視覚的にも楽しむ限り、視覚に頼る広告媒体である映画ポスターは作られ続けると私は思う。
CDのジャケ買いのように、映画ポスターが訴える内容の世界観やデザインでふらりと映画を観てしまうことなんてないだろうか?
少なからず私はある。
映画とは別かもしれないが、最近の美術館の特別展ポスターはデザイン性が高く話題になったりしているそうだ。
また、大阪・海遊館の特別展の「シャークワールド」の中吊り広告が秀逸だとSNSでも話題になり、紙媒体であるポスターの影響力はまだあるようだ。
去年ぐらいか、「アベンジャーズ・エイジオブウルトロン」の映画ポスターがダサいと私のツイッターの画面がえらいことなった。
私はそこまでアメコミに執心している訳でもないので、チラッとだけ観てみたが「うーんちょっとコレだとアメコミ初心者は見ようと思わないかな……」と思った。
一瞬何かが私の頭をよぎったが、その時は浮かばなかった。
だが先月11月に、ある映画ポスターをSNSで見てこの小さな考察を書くことになった。
「白鯨との闘い」のポスターを見た瞬間、私の頭にアメリカはサウスダコタ州キーストーンのラシュモア山が浮かび上がったのだ!
「日本の映画ポスターってラシュモア山なんだ!」
と分かり頭がすっきりした。
その旨をツイートするとなかなかの賛同をいただき、皆さんも映画ポスターを見ているんだという安心感を得る一方、ある反応を多く見つけた。
海外版ポスターにはデザイン性が高いポスターが多く存在しており、日本のポスターが軒並みダサいらしい。
こうして、大阪の片隅で私は密かにこの構図の映画ポスターを「ラシュモアポスター」と名付け、ラシュモアポスターについて考えようと思った。
ラシュモアポスターを語るには、先ずラシュモアポスターの定義を考えなくてはならないだろう。
以下1~3の定義を満たすポスターをラシュモアポスターとする。
- 人物の図像のいずれかの場所がかすれている。
- 何か物体の図像で人物の図像が隠れている。
- 人物同士が明らかに現実ではありえない遠近感で配置されている。
定義をするために古今東西の映画ポスターを200ほど集めて見比べ、邦画と洋画に分け、さらにラシュモアポスターと非ラシュモアポスターに分けて分析した。そこから私が読み取れたことと、少しの考察をまとめたいと思う。
まず調べていく内に気が付いたのは、
「ラシュモアポスターはダサいとは限らない」ということ。
例として、「スター・ウォーズ」があげられる。
明らかにラシュモアポスターの条件に当てはまるものの、作品自体の壮大なスケールにあった構図だと考えられる。
他に「ホビット -思いがけない冒険-」のドワーフ達が集まったバージョンのポスターもダサくないラシュモアポスターにあげられるだろう。
この作品では13人の個性豊かなドワーフが登場するが、
ドワーフがどんな性格なのかを感じ取るのに13人が画面狭しと並べられるこの構図はインパクトが強く効果的だと言える。
ラシュモアポスターの構図(以下、ラシュモア構図)は人物や世界観を誇張するには効果的な構図であるようだ。
ラシュモア構図はコラージュの技法とも受け取ることができる。
ラシュモアポスター自体がダサい訳ではないことが分かった。
何がラシュモア構図をダサくするのかは後述で考えたいと思う。
次に分かったことは
「ラシュモアポスターは本国でも作られる」ということである。
ラシュモアポスターに関する一考察を書く上でSNSやブログで日本の映画ポスターがダサいと発言しているものを一通りチェックした。
また、ご意見もいただいたのだが、どうやら日本だけがラシュモアポスターを作っている訳ではないようだ。
このラシュモアポスターの典型的な例として「コッホ先生と僕らの革命」をあげたい。
私が見たこの作品のポスターは本国ドイツ版2パターンと英語版ポスターと日本版ポスターだが、本国ドイツの1つ以外全てラシュモアポスターなのである。
コッホ先生が浮かんでいる。
このように、日本だけがラシュモアポスターを生産しているわけではないのだ。
日本でもラシュモアポスター(例:「日本沈没」)と非ラシュモアポスター(例:「百万円と苦虫女」)が作られている。
また、制作本国で作成されたラシュモアポスターを日本語訳して発表されるパターンもあり、ラシュモアポスターが日本の専売特許ではないのが分かる。
他のご意見には、
「昔の映画ポスターにもラシュモアポスターはある」
というのもあった。
どこから古いとするかは個人の判断になってしまうものの、明らかに古典的な映画を例にあげたい。
「荒野の七人」の本国ポスターは主要なキャラクターを演じるユル・ブリンナーの頭部が七人のガンマン達の上に浮かんでいる。
また、日本での古いラシュモアポスターでは「蜘蛛巣城」や「赤胴鈴之助」がラシュモアポスターといえる。
私が見る限り、昔の映画ポスターの多くがラシュモア構図をとるように思えた。
私が探し当てたものに限りがあるとはいえ、どうやら昔は紙ポスターよりも看板に直接職人が広告を描くことが多かったのも原因かもしれない。
映画が最大の娯楽だった時代を考えれば、知名度の高い俳優を押し出すためにラシュモアポスターが大量生産される可能性は高い。
もちろん、非ラシュモアポスターも作られている(例:「大人は判ってくれない」)が、むしろ古い映画の非ラシュモアポスターは映画の配給会社のお抱えのデザイナーが作成することもあるようだ。
要するに、ラシュモアポスターは古典的な映画ポスターの一形態なのだ。
では、ラシュモアポスターの何がダサいと感じさせるのか?
それは、長所は短所であるように印象を押し出し過ぎるとラシュモアポスターは主張が強すぎて作品を損なうことになるのだ。
映画ポスターの役割が見る人に印象づけるものなら、ラシュモアポスターが足し算で非ラシュモアポスターが引き算の技法なのだ。
なので、使いどころさえ間違えなければ上記のかっこいいラシュモアポスターの例のように効果的なポスターになるのだ。
また日本の映画ポスターが軒並みラシュモアポスターなのもダサい原因かもしれない。
「日本にラシュモアポスターが多すぎる」のは日本と海外の映画ポスターの公表の仕方の違いを述べなければならないと私は思う。
では、日本と海外の違いは何か?
今回考える発端になった「白鯨との闘い」を例にすると、海外ではまず非ラシュモアポスターが発表されるようだ。
「白鯨との闘い(原題:IN THE HEART OF THE SEA)」の非ラシュモアポスターは、巨大な何かの目の前に主人公が銛を持って浮かんでいるもので、これは強烈な印象を見る者に残す。
引き算の技法が生きていると思う。
引き算の技法であるデザイン性が高い非ラシュモアポスターの長所は作品や出演者にそこまで思い入れのない映画はたまに見に行く程度の消費者に有効なところである。
まずこの非ラシュモアポスターである程度人をひきつけ、それから人物を押し出したラシュモアポスターを公表し、どんな俳優が出て巨大な何かが鯨であることを示して新たな消費者の心を掴むのである。
最近の日本ではラシュモアポスターのみ公表する。
なぜ「最近の日本」なのかというと、10年ほど前なら1作品に2、3パターンのA4版映画ポスターが手に入っていたと思うのだが、近年は1パターンのみ発表されているように感じるからだ。
ラシュモアポスターのみの公表はいささかリスクが高いと思われる。
ラシュモアポスターは俳優が誰が誰だか分かる映画好きなら有効かもしれないが、たまに映画を観に行く程度の消費者を新規開拓するのには向かないからだ。
また、
「日本の映画ポスターはラシュモアポスターに限らず煽り文句の多くてダサい」
ことが海外と日本の映画ポスターを見比べて分かった。
日本の映画ポスターはとにかく映画の内容を一枚のポスターで語らせようとする。
誰が出て、何が登場し、どんなジャンルか、どんな印象を受けるのか、原作が有名なのか、どれだけの賞に輝いたのか、とにかくあげ連ねる。
近年の日本の映画ポスターはラシュモアポスターだろうが非ラシュモアポスターであろうが、本当に煽り文句にあふれていて煽り文句のないポスターを探すのが難しい。
冒頭でもあげた「アベンジャーズ」のポスターに限っては映画の核心的なところに触れているらしく、私は気が遠くなり映画館には行かなかった。
私がラシュモアポスターについて考えて行きついたのは、
日本の映画ポスターがダサいのはラシュモアポスターのせいではなく「煽り文句」をつけすぎるせい
ということだった。
ラシュモアポスターはただの構図であって悪ではなかったのだ。
ここからは完全に私の想像になる。
読まなくてもいい
。最近の日本の映画ポスターがなぜ煽り文句満載のダサいラシュモアポスターで埋まってしまっているのかは、映画を観る人口の減少による映画配給会社の予算不足がすぐさま浮かんだ。
だが、今回は映画配給会社の疲弊についての考察は述べないこととする。
それは私が業界人でもない素人で映画論や表現論のような参考文献もあげずに考察しているからだ。
だが、SNSで見かけた「日本でラシュモアポスターが多いのはポスターを見る方がデザイン性の高い非ラシュモアポスターから何も受け取れないから」といった趣旨の記事については少し述べておこうと思う。
この「ある受け取り手が馬鹿だから理解できない」理論は、映画ポスターだけでなく全ての表現に関して論争を始めたら浮かぶ意見だと思う。
でも映画ポスターに関してこの理論にちょっと異論を唱えたい。
なぜなら「ダサイ!」と思う人が一定数いるからである。
映画ポスターが消費者に映画館に足が向くよう印象付けるための媒体である限り、「ダサイ!」と思わせたらいけないのだ。
人を引き付けるための広告媒体は人に「?」と思わせたり気分を害してはいけない。
娯楽作が多く迎えられる洋画ならなおさらだろう。
炎上商法なるものが存在するそうだが、TPOではないが炎上商法を利用して効果的な映画の内容は限られていると思うし、炎上したのは結果だけであって商法なんて存在しないと私は思う。
日本のダサイ映画ポスターの解決策を考えるには、いささか短時間なのと勉強不足でとても難しい。
ひとつあげるなら、「声をあげつづける」ということが日本では手っ取り早いのかもしれない。
冷静な根拠ある言葉をあげていくのがこのラシュモアポスターに関する問題を知らない人達への普及や普段考えない表現方法に関する難しさや問題提起にもつながるのかもしれない。
私は今回ラシュモアポスターのおかげで随分と日本における表現の危うさについて色々考えることができた。
この小さな思考訓練のおかげで、
「表現は技法も内容もTPOに合わせないと表現する対象を貶め作品への印象が下がる」
ということごく当たり前の事実に私はいきついた。
ラシュモアポスターがなぜダサイのか皆さんも考えてみてはいかがだろうか?
最後に解決策ではないが、海外では「スター・ウォーズ」など自分の好きな映画のポスターを自分で作成し発表することがあるらしい。
制作側とファンとの正しいキャッチボールが頻繁になされるところも日本と海外の表現のちがいのひとつなのかもしれない。
iwashidaの考えはじめにあたって
はじめましての方ははじめまして、iwashidaと申します。
ご存知の方はここまで見てくださってありがとうございます、iwashidaです。
普段ツイッターで趣味を謳歌している私ですが、真面目な事を考えるとなると140字には収まらないのでブログに書くことにしました。
なのでツイッターで普段おしゃべりしたり私の趣味生活を覗いている人には「こいつなんか真面目なこと書いてる……」と引かれるかもしれません。
内容がつまらなかったら見なくても大丈夫。
でも、私だって真面目に真面目な事をこねくり回すことだってあるし、24歳の若輩者にも考えることはあるんです。
専門外の門外漢、考える魚類ことiwashidaですが、ゆっくりのんびり考えて書きたいと思います。